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早実・清宮選手を巡る敬遠策と高校野球の在り方に物申す!

投球を打ち返そうとする左打者

5月14日、熊本県で行われた「早稲田実業」対「秀岳館高校」の練習試合において、清宮選手と対戦させたいが故に、前打者を敬遠して勝負を挑む場面が見られた。物議を醸したこの采配と、高校野球の在り方について探っていきたい。

2017年8月14日:加筆訂正。用字用語の整理。

「公式戦なら絶対しない」秀岳館・鍛治舎監督の意図とは?

問題の場面が訪れたのは、秀岳館が5対1でリードした9回2死走者無しのときであった。打者は、2番雪山選手。次打者には、3番清宮幸太郎選手が控えていた。

そこで、秀岳館の鍛治舎監督は伝令*1を送り、「雪山選手を敬遠、清宮選手との勝負」を指示した。指示を受けた秀岳館の捕手が立ち上がると、清宮選手との対決と本塁打を期待する約7000人の観客からは、歓声が上がった。

結果は、清宮選手は4球目を打ち損ねて一塁ゴロ。試合終了となった。勝負を挑まれた清宮選手は憤然とした表情を浮かべた。一方、敬遠された雪山選手は、無念がり涙を頰に伝わせながら球場を後にした。

秀岳館・鍛治舎監督はその意図について田浦は対戦していなかった。公式戦では絶対にしない。と述べた。

背番号1を背負う田浦投手が、次に清宮選手と対戦するとすれば、夏の甲子園になる。この機会に対戦させておく思惑があったのだろう。また、この機会を逃せば、二度と対戦できないかもしれない。将来有望な田浦投手に、貴重な経験を積ませてやりたい思いもあったはずだ。

早実・和泉監督が、清宮選手を交代させていたら?

和泉監督は試合後に参りました。全国トップレベルの投手とやる機会がなかったのでよかった。と試合の結果のみを淡々と語り、敬遠に関する質問は遮った。

試合後に鍛治舎監督から敬遠の意について弁明したようだが、「来る甲子園での対戦を想定」であるなら、和泉監督は清宮選手を交代させる選択肢もあったはずだ。しかし、和泉監督はそれをしなかったが、鍛治舎監督の戦略を阻止すべく、その采配もあり得たわけである。

一番大事なこととは?

清宮選手が目当ての観客はしょんぼりしただろうか。鍛治舎監督は納得いかなかっただろうか。どちらも十二分に予想される結果である。しかしながら、最も大切にすべきは、その駆け引きに巻き込まれた当事者である選手たちの「気持ち」ではないだろうか。

今日もまた夏の甲子園に向けて歩み続けているだろう。少なくとも、田浦投手や清宮選手、そして雪山選手にとって、この出来事が今後の精進の糧になり、向上心を尻押したかは甚だ疑問である。

「部活」である高校野球

高校野球は、その熱狂ぶりからプロ野球と同等に扱われ、勝ち負けが過剰に重視されてしまうことがある。それはほとんどの場合、周囲の大人たちによって醸成され、生徒たちがあおりを受けることがが多い。

今回も人気者の清宮選手が出場するため、主催者の意向でナイター開催に変更された。また、練習試合にもかかわらず、多数の報道陣が駆け付け、早実のみならず対戦相手にも取材攻勢。生徒たちの日常を邪魔していることは否めない。

運動部ならどこであっても勝敗は付き物だ。当然それを通じて生徒の成長を促す側面はあるだろう。しかし、未成年の高校生には、部活を通じて人間性を育てる「教育」の意味合いの方が強いのではないだろうか。

もしかしたら今回の鍛治舎監督の敬遠指示は、この経験を生かして夏の甲子園で清宮選手に勝利する場面を生むのかもしれない。

それでよいのだろうか。私はそう思わない。肝心なのは、相手選手への敬意を欠くような行為を教えることではなく、選手たちが敬遠される雪山選手の無念さを配慮し、自主的に勝負を選ぶ「人間性を育む」ことであったはずだ。

まとめ

今回の清宮選手の敬遠については、舞台が高校野球であるからこそ、多様な議論で関心も高まった。「練習試合だから構わない」「敬遠はやり過ぎだ」など賛否両論あってしかるべきだ。清宮選手は自他共に許す力量の持ち主で、注目されるが故に起きた事件と言えよう。ただ、主役であるのは紛れもなく選手であることは忘れてはいけない。

マスメディアや監督、観客を含めた大人たちの都合によって、振り回すことだけは「敬遠」してほしいものだ。

*1:命令を伝えること。また,その役割をする人。/出典:スーパー大辞林3.0(三省堂 2014年)